「シンママだから凄い人達と会える」のかもしれない。でも、私は白いキャンバスが羨ましい。
白いキャンバスにどんな色づけをしていくか、自分の人生をどんな色で彩どるのか。
そんなこと、人生の中で選択を迫られた時は、何色なのか分からないし、真っ黒に視えるかもしれない。
先日、6つ歳下の友人からの相談に乗っていた時に、
「ゆか子さんは良いなぁ、シングルマザーで今の年齢で定時制に通ってるってだけで凄いし、なんか文章書いてるし、凄い人たちにも会ってる」という話をされた。
確かに、友人の指摘通り僕は“シングルマザー”を売りにしている節がある。
もっと的確な表現をするならば、“下層”を自分のフィールドにしているし、「する」と宣言している。しかし、“今”はである。
ここ数年のことを思い出してみると、僕は“語り手”だけをしてきた。
つまり、発信力なんてモノは無かったし、自分の人生を、自分の世界を誰かが“代弁”する事に違和感を覚え、ボロ雑巾になったかのような気持ちになった事もある。
“自分”が知らない“自分”を言語化されるのだから当たり前のことである。
そんな中で、憧れの人(角間さん)がくれたのが“情報発信”する機会だった。
僕が初めて書いた記事は、“夜の世界で働くシングルマザー”を題材にした内容である。
あれは、僕自身の経験や僕が生きて来た中で出逢った「日常」の一部分にすぎない
し、“当事者”としての期間があまりにも長過ぎたし、あんなに短い文章を書くだけで、“自分”の存在を“社会問題”として捉え直さないといけないのだから、「ツラい」以外の感情は生まれなかった。
今までに“昼間の社会”から捨てられ来た自分と向き合うのだから、並大抵以上のの労力を要するのは想定内であったが、「拾う神」が現れたのは想定外だった。
「拾う神」は、、、、、うん。(ウザい、言われても愛してるぜ!)
とにかく、最近「拾う神」に提示されたのは、究極の2択とも言えないような、沖縄県知事選のような“実質1択”の選択肢である。
明記はしないが、僕が選んだのは“後者”だった。(後者しかないしw)
僕のキャンバスには、既にたくさんの色がある。だから、前者を選べなかったのである。
しかし、後輩の場合は違う。真っ白なキャンバスとは言わないが、“子ども”という不可逆性しかないような存在が無いだけ、前者を選ぶことも可能なはずなのである。
そこは、僕がどんなに努力しても変える事が出来ない現実だし、同時に娘の存在を否定する事になりかねない。
僕のキャンバスが真っ黒だとするならば、たまたまラッキーが重なりあい、夜空に咲くような花火とまでは言えない、幼稚園児の娘が描くような不器用だけど、どこか魅力がある、そんなキャンバスにしていきたいと思うのである。