シングルマザー女子大生ゆるゆるゆか子にっき

シングルマザー女子大生(だった)上原のにっき。ゆるふわニートなうです。

“愛”のカタチって沢山あるんだな

先日の金曜会で、取材対象・研究対象への“愛”についての話があった。

 

僕は、今まで“対象者”として“愛”を注がれてきかたか、と思うと正直なところ分からない。

何度かインタビューを受けてきて思うのは、自分を語る度に彼らにとって自分の存在価値が薄れていくモノだ、とか、そういった類いの複雑な感情を抱くことは多々ある。

 

僕が「◎◎の話を聞きたい」系に拒否反応を起こすのは、当事者性が強く出てしまうからなのだけれども、目の前の“オブジェ”というよりもオナホールにされている気がしてならない。

 

ぱぱにゃんから「下層は財産だ」との言葉を頂き、兄ちゃんから「自分の対象を簡単に紹介しちゃダメだ」と強く言われるようになり、これからの自分や対象者とどう付き合いをしていくのか考える度に、どうして良いか分からなくなる。

 

僕が“対象”にするのは、“研究対象”として知り合った“人”でもなければ、“オブジェ”でも“オナホール”でもない。

 

過去の僕の日常の中に居た、僕と同じ時間を共有していた“仲間”なのだ。

もっと言ってしまえば、今でも連絡を取り合う仲で、ただの友だちを“対象”にしようとしているのだから、“愛”とかよく分からない。

 

友だちに対して、これは良くないよ!とか、ボキャブラリーが乏しいね!とか、評価を下してしまうのには、もの凄い抵抗があるし、数少ない友だちを傷付けてしまう事になる。

 

僕は、あくまでも友だちが望んでいる社会にするために、ちょっとだけお手伝いが出来たら良いな、自分が居る世界をちょっとだけ住みやすくしたいな、とか、その程度のスタンスだし、僕自身の感情だけで言うなら、良い顔して僕らの存在をバカにし続けて来た中途半端に的を得て、外している人たちに向けて、「僕の人生は間違っていなかった。お前らにココは出来ないだろ?」と示したいだけなのだ。

 

だから、“愛”なんて分からないし、僕の仲間の軸は“対象者”であると思っている。