タバコと杖
ひとって不思議なもので、いつもしていた事が出来なくなると、それだけで気が滅入ってしまう。うちのばあちゃんは喫煙者なんだけど、腰痛でタバコが吸えなくなった。
吸いたいのに吸えない、ゲームしたいのに長時間座れない、料理したいのに立てない。
口をひらけば「惨めだ」「ぐそー(あの世)いくのかな」とか。ネガティブな言葉ばかり。
つい先日、ばあちゃんの咳が治まっているのに気づき「タバコ買ってこようか?」と声をかけてみた。
「ああ、吸えるか分からないけどお願い。臭いするだけで安心するさ」「ママと叔父にはチクらないでよ。ゆかこが怒られるから」「大丈夫よ」。
何も大丈夫じゃないだろ!!! 全力で突っ込みを入れたいところだが、私の気持ちとしては、何でも良いからばあちゃんが"座る"理由が欲しかった。
ゲームは全クリするまで続けるタイプのばあちゃんを座らせるには、タバコを吸わせるのが無難だろう。長くても5分程度なら座れるんじゃないか、と期待して近所の商店に向かうことにした。
家から3分もかからないところに商店がある。その商店は、ご近所の老人たちが集まり、ビールケースの上に老人たちが座り、グダグダとゆんたくする場所になっていた。
ちょうど2年前だろうか。商店のオバチャンが完全に寝たきりになった。加齢によるものらしいが、座れないし、自分でご飯を食べることすらできない。
私は、日に日に弱っていくオバチャンを見るのが嫌で、あれが出来なくなった、これが出来なくなったという話を聞くのが嫌で、もう少し遠いコンビニに買い物にいくようになった。ばあちゃんと同じく私も喫煙者なのだが、商店に行くのを避けるようになる前のパッケージの、私が吸っている銘柄のタバコが今でも棚に陳列されている。ある日、商店のオバチャンから電話があった。ばあちゃんが話しているのだけれど、受話器からオバチャンの声が漏れていた。徒歩5分先の商店に泣いているオバチャンがいて、今日から入院することになったという報告をしている。ありがとう、今までありがとう、って泣いている。
その日は、外に出ると近所のお年寄り達が集まっていた。もちろん、オバチャンを励ますために。「泣かないで!! 次は正月に会えるよ」「病院に遊びに行くから」。どんな言葉をかけられても、オバチャンの涙が止まる気配はなかった。
あんなに魅力的だった近所のインフォーマルなコミュニティに終わりが近づいた気がした。私は、あれが永遠に続くものだと思っていた。私は彼女たちのコミュニティの終焉を認めたくない。だって、それは彼女たちの老化や死を意味するから。
ひとりずつ、じっくり時間をかけて、確実にいなくなる。誰かに語り継がれることもなく、その土地の記憶に残るわけでもなく、時間とともに消えていく。
「オジサン、ばあちゃんのタバコちょうだい」
「ばあちゃんの身体の具合は大丈夫なの?」
「うーん、たぶん。タバコ吸えるくらいなら大丈夫じゃないかな」
「そうか。はい、これ。値上がりしたんだ、440円ね」
「ありがとー」
家に戻ると、ばあちゃんが座っていた。
タバコを買ってくる私を待っていたらしい(笑)。どんだけタバコ吸いたいんだよ(笑)。
後日、ばあちゃんから「いつもの引き出しからタバコとって」と言われた。
タバコのストックを買った記憶がない私は「ん?買い置きあるの?」と聞いてみた。
すると「うん。タバコと豆腐買いに行ったよ」という驚きを隠せないような返しが……。
ここ3日くらいは、自分でご飯を作り、タバコを買いにいくようになった。
「まだ、ぐそー(あの世)いかないみたいさ」と笑っていた。
きっと、ひとは何らかの理由で、強制的に、いとも簡単に、日常を取上げられてしまうことに怯えながら生きているのかもしれない。
杖をつきながらタバコを買いに行くばあちゃんを見て、娘とふたりで笑った。
ばあちゃんの姿がおもしろかったからではなくって、日常を取り戻しつつあるばあちゃんの姿を嬉しく思ったからだ。