「私たち」は語れるのか
つい先日、キャバ友とランチに行った。私が上手くインタビュー出来ないというか、ポジティブなインタビューをしてしまうって相談をした。すると、「インタビューしたって、ちゃんと話さないと思うよ。自分の人生を話したい人って、複雑な事情がない人じゃない?」と、言われた。
たしかに、納得せずにはいられなかった。私だって相手が望んでいる事を答えてみたり、違うことを言って困らせたりしてきた。これは「当事者」としてのスキルだと思う。それに加えて「キャバ嬢」は、日々、色んな人と接し、駆け引きをしている。つまり、アタマを使えない子は淘汰されるわけだ。
そう考えてみると、ツラかった過去を聞き出そうなんて不可能だと言っていいだろう。それも、栄えている地域のキャバ嬢から聞くには無理がある。
「私たち」は、自分語りをのらりくらりとかわす技術を自然と身につけている。そのため、どんな質問をぶつけられようが「語っている」ようで「語っていない」というリスクを背負わないといけない。
スティグマ者としての自分語りは、したくないんだし、テンプレ化された答えを持ち合わせている「私たち」は、きっと、語れないし、語らないのだと思った。